昭和45年09月30日 朝の御理解



 御理解 第48節
 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。いうことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 二、三日前もここのところを頂きましたですね。おかげを頂くひとつの、機微だと言う様な御理解でしたですね。例えばのりものに何か心急いで、汽車なら汽車に乗る時にね、行った後であったとそういう時に、本当に急げば急ぐほど、イライラするんだと、それこそ上りに乗らなければならんでも、下りが来ると下りにでも乗ろうと、いったような衝動さえ感ずると。
 そういう時に本当に上りの目的を、下りの方へ行ってしまうような結果になったり、だからそういう時に例えば本を読むなり、又は編み物をするなりと、女の方であったら何か時間を待つ工夫をする。そこに時間がいつ経ったか分からないような、次のいわば目的の車に乗る事が出来ると言った様な、いわばそういう意味で頂きましたですね。そういう例えば、ここの四十八節の頂き方を、女性的な頂き方と致しましょうかね。
 取分け子供の病気といった様な時には、やはり母親が一番身近におるものですから、そういうおかげを受ける為の心のゆとりを作る信心をさせて頂かねばならんという。今日私ここの所をですね、いうならそういう意味での信心を女性的な信心と言うなら、ここをひとつグッと変わった、所謂男性的な信心と言った様な意味で頂いてみたい。同時にこれは、私自身の事を皆さんに聞いて貰いたいと思うのです。
 例えばわが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬと、言う事を聞かぬ時に放っておくような気になって信心してやれ、おかげが受けられるというのは、ここのおかげという事をね、子供の病気がよくなるとかよくならないとかと言う事に置いていないのです。そういう心持ちになれば、ほんなら子供の病気はよくなるというのが、この御理解はそうも説いてある訳ですよね。
 そういう心の状態になると、例えば助からん子供でも助かると、けれども私はそういう心になると、おかげが受けられるという、そのおかげをですね、子供が助かると言う事に置いていない。いわゆる大きな意味に於いてのおかげ。これは私の例で申しますなら、子供達が、いうならびっくりするような怪我をしたり、病気をしたり致しておりましても、私の心の中には、その事はよくなるとかよくならないとかという事ではなくて、勿論放っておく様な気持ちになっておるですねやっぱ。
 放っておく気持ちになって、その事は願ってやれというのではなくて、私は今日はこの四十八節と言う所をね、いつもです言わば信心の向上だけしか考えていないという事。何時もこう広がって、信心が次の信心に飛躍して行く事の心準備だけしかしてないという事。いつも信心がその事によって信心が進み、その事によって徳が受けられるならです、その事はもう問題じゃないのです。子供の病気というか、その事は。
 ですからずうっと皆さんに話は分かっても、実際の所は大変皆さんの、云うては失礼ですけども大変遠い所のものじゃないかと思うですね。目の前にあるひとつの難儀といった様なものを、そこから抜け出たい。そのおかげを頂きたいから一生懸命信心しておるという人がまあほとんどなのですからね。ですからその問題というものは、もう問題じゃないのだ、問題ではないという事ではではないけれども、その問題を通して、いつもその事によって、信心を、もう一段進めようとしておる。
 その事によって、もし徳が受けられるならば生きるとか死ぬるとか、その事がおかげになるとかならないとかいう事は全然問題じゃない。もう問題は最後の所の、そういう心になれば、おかげが受けられると言うおかげというのは、いつも、信心のおかげを受けられる。その事によって徳を受ける。その事によって力を受けるという事だけしか考えていない。ここんところで言うならば、その子供の病気の事やらは、よしそれで死んでもと言う気が、何時もあるんです。
 自分の信心の、それが根肥やしになるならば。信心がね非常にいうなら、淡々とした男性的な信心。私はそう思う。大きな信心には行き詰まりがないと言われておる。例えばほんなら、絶対行き詰まりがないですよね。死んでも良いというのであるから。死んでも良いというて死んでも良いと、普通で言う冷淡ないい方じゃないです。その死ぬると言う事よりももっとより大きなものを、その事によって、得られるんだという確信なんです。皆さんもご承知の通りです。
 例えば若先生が破傷風にかかった時も、つい最近でしたね。ほんなら現在幹三郎があのようなまぁ難渋な病気をしております。それは親が実際苦しんでおるとか、そういうのを目の前にするのですから、それを見てどうでも良いといった様な気持は起こりませんよね。可哀そうだなとか難儀そうじゃろうなと。この頃から幹三郎が三十日の日、何時もここへ、月末のお礼を申しましてね、そしてここでここのお広前で丸く円を書いて、信心共励を毎月致しております。そん時に幹三郎が発表しておるのにですね。
 第一そのどういう事を言うかと言うとね、ちょうど少年少女会で御本部へ参りました。だからこの近所の者やら、自分の行っておる学校でなら、もう幹三郎の顔があんなに腫れて、いわば見苦しゅうなっとるとは、みんなが知ってるからそう気にならんと言うのです。ところが本部に行って、同じ年配の者と沢山合う時みんなが顔をこうやって、じろじろ見る訳ですあんなに腫れてる、何時も頬腫れの様にしとるもんですから。
 だからねそれが堪らなく恥ずかしいとこう言うのですよ。だからそれを聞かせて頂いて、ほんにそうじゃろうなぁというならもうお洒落のひとつもしたいという年頃ですからね、高校何年といや。だからそうだろうなぁとやっぱ思いますよ親だから。けれどもそうだろうなぁと思う事よりか、もっともっと私の考え方は向こうの方に飛躍しとります。その事によって幹三郎あんたが、信心が分かり信心が進めばと私は言いましたけども、実を云うたらその事によって私の信心が飛躍する。
 この人が土台になってくれるなら、もうそれを犠牲にしてもいいと私は思うとるんです。これは本当ですよ。ですから所謂何時もがですね、信心を限りなく広げていこうというか、それこそそれをもっと煎じ詰めるなら、人が助かる事さえ出来さえすればという精神なんです。そういう修行をさせて頂いて一人でも、ここに本当に信者が助かる事ならば、それは問題じゃない。問題じゃないと言うとなんですけれど、それは犠牲を払うても致し方がない。それよりより大きいものを頂く為なのだからというのである。
 ですから、今日の御理解は、ここんところを、そういう風に頂きますと、非常に男性的ですね。けれども本当はね、そういう生き方でなからんとお徳は受けられんと、私は思うですね。只その事がおかげ頂くことの為、例えば子供の病気をおかげ頂くことの為に、おかげを頂くコツありと言ったものを、ここから頂いていくというのは、それはここでも仰って居られます様にいう事を聞かぬ時に、ままよと思うて放っておく様な心になって、信心してやれおかげが受けられると。それはもうその当面の事だけ。
 けれども私のはそういう心になってです、それがよしおかげにならなくてもです、どこに狂いがあるやら分かりません。あのようないわば一生懸命の信心も修行もさせて頂いて、その事は放っておく様な気持ちで、お願いさせて頂いたのにも敢えなく、例えばその子供が死んだとこういう事になるとしましょうか。もうそこに行き詰まりを感じなければならんごとなっとる。信心が小さい。
 だから信心がもっともっとずうっと大きな信心、大きな信心には行き詰まりはない。ですから、そこのにきは当面のその問題を通して、より大きいおかげを頂いていこうという願いだけしかないですから、行き詰まりがないでしょう。天地日月の心になること肝要なりと、いう様な風に教えておられます。これをまぁ天の心、地の心と日月の心を、実意な心と言った様な意味で申しますが、私はここのところに、今日はそういう大きな信心という意味あいでそう感じます。
 天地日月の心になると言う事は、どういう事であろうか。私はこの四十八節から、それを感じたんですけれども。所謂天地の心といや是より大きい偉大なものはないですね、天地程に大きな心なのですから。そういう例えば大きな信心、愈々男性的でしょうが。日月の心これは正確な心。そこでここでですね信心してやれ、おかげが受けられると仰るその、信心してやれというのはね、私共がいわゆる正確な信心をするという事だと、きちっとした信心をするという事だと。
 これは自分なりにです、それは出来ん所は出来んとして、お詫び抜かせて頂くけれども自分なりに、つういっぱいの信心をさせてもらうと。天地程のいわゆる大きな心大きな信心。しかもそれが日月の様に正確にきちっとした信心、私はそういう信心が大体に於いて出来ておらねば、今日私が云う所は分からないと思うね。いつも信心を高めていきたい力を受けたい徳を受けたい。
 その為ならば目先の例えば問題難儀と言ったものを犠牲にしても、それはよしおかげは受けられなくても、次のおかげの飛躍信心のおかげを、おかげが受けられると仰るおかげを、そういうもういっちょ先のおかげに、着眼しておる訳です。目先のおかげじゃない。昨夜の御祈念の時に、吉井の熊谷さんが、夜の御祈念にもお参りになります。そしてこういうお届けをしておられました。昨日は敬親会で、ご自身も敬親会でおかげを受けておられました。そしてお祭りが済んで余興に、浪花節がございましたですね。
 中に「大石東下り」という外題の浪花節でした。浪花節ももう私は今まで沢山、毎年来られたけども、一番しっかりした浪花節だったと思うし、非常に外題は固い外題であったけども、非常によかったと私は思いましたが。その浪花節を聞かせて頂きながらですね、大石内蔵助という人は、なんと偉大な素晴らしい人であったろうかと、例えて云うならばです、自分の主人筋の家であってももし潰れたら、離れたいのが人情だと。
 潰れたら金でも貸してくれと云われたら困るから、お世話になっておった事は忘れてしもうて、そこから外れようとするのが人情だと。しかも大石内蔵助を中心として、四十七人の人達がですね、自分の命を的にして、本懐をとげる為の様々な苦心、苦労をしたという事がです。その中心になった大石内蔵助という人はもう、大変な偉い人であったろうなぁと、あれは勿論、史実に基づいての事ですからね、あの忠臣蔵は。
 東下りだって同じこと。本当に矢張り素晴らしい腹の出来た人だなと、そういう風に思わせて頂いて、私がおかげを頂いて、合楽に御神縁を頂いておるという事は、なんと有り難いことだろうかと思うたと。これはまぁ熊谷さんの言葉を借りるのですよ。私がそうち言う訳じゃない。うちの親先生は本当に大石内蔵助のごたると思うたち。だからこの人の為ならばね、私は命が投げ出されると思うたち。四十七士じゃないけれども。
 と思うたら、とにかくバスの中で感動して、お礼を申させて貰いよったらね、御神眼に、長ひょろい型の、卵形の、まぁいうならば、契印と言うかね、判です判。はんこ。契印を押しておったのをね、この角判に押し変えろと頂いておられる。それはまあ実印と云う感じ。それはもう合楽にご縁を頂いておる事は有り難い、こういう親先生を頂いておる事は有り難い。この親先生の為ならばと、まあ思いは同じだけれどもです。
 この為ならば云うなら命をかけてもよいなと思うたち。昨日の東下りの浪花節を聞いて、ずっとこう思いがそういう風に、信心の方に通うてゆく訳なんです。そしたら神様からね、四角い判と判を押し変えろと頂いた。今までの合楽に頂いておる一つの帰依というものは、もっと深い帰依になった訳なんです。私はだからそれを、お届け聞かせて頂いてから申しました。その後のご直会の済んでから後の席上でしたけれど。
 丁度総代さん方が全部男の人が残っていました。菊栄会の人達が五、六人残っていました。それに委員長達夫妻、それから日田の綾部さん達、あすけ十何人か大テーブルを囲んでから、信心のよもやま話の中にですね、綾部さんが本当に私がね、甘木の初代が素晴らしかったという事はね、これはもう私の知っておる限りだけども、平田さんとか、福岡の千代町ですね、大丸という家具店かありますが。
 毎月御本部に二回ずつのお参りをされる。甘木にはお日参りをなさるというご婦人がおられます。ご婦人ち言うがご夫婦でしょうね。それやら平田さんあたりの信心がですね、もういつでも、甘木の親先生がおっしゃるなら、この家蔵財産はいつでも、のしをつけとりますという人達があるという事なんです。親先生が何時でもちょいと平田さん、一千万要るばいち言うたなら、「はい」ち言うて、いつでも出せれる体勢の、又、事実そうなんですね、平田さん辺りの場合は。
 そういう人達が育っておるという事は、成る程それを育てなさった甘木の先生は偉大であったな、素晴らしかったなと云う話をしたんですよ。ところが合楽にはまあだ悲しいかな、そういう人は一人もおらんと、私が。例えば熊谷さんが、初めに思うておられたという程度の人なら、沢山ありましょうね。いわゆる契印でも押してる人なら、沢山おりますばい、ここには。けれどもねそんなら、実印を押してですたいね。
 それを例えば心に誓わせて頂ける程しの人は、まあだいないという話をしたら、綾部さんが「先生、そんなら私が出来ます。」と言う。けれどもねああたのはまだまだ、ほんなら純なものではないという事。まあだまあだ不純なものがあるまあだ綾部さん、ここにちょっと一千万円出しなさいなんては言われそうにないのだと。不浄のあるものだったら、更々、いけんのだからね、云うならば。
 だからこれからの信心が内容が、本当に例えばしっかり出来てそれを言われると言うとのになったら、素晴らしいことでしょうけれどね、と言うてお話を致しましたというて昨日、熊谷さんに又話したんです。そのお話をそういう意味あいで、あなたはおかげを受けてられる事になりますという事。実印と押し替えれと神様が仰った。信心が本当に男性的なね、大きなドン腹の据わらなければ、出来る事じゃないですよね。
 それこそ妻子を残して全てを残して、自分はご主君の為に命をかけて、仇討本懐の為に挺身するというのですからね。それを例えば熊谷さんは自分の信心の上に置き替えられた訳なんですよ。私はねそういう例えば信心がもうその事は、何時もないものにしてある、神様のお預かりものにしてある、それは家も蔵も財産も命とまでがそうなんだと言う事。そこで私は今日は男性的な信心、いつもです何時もお徳さえ受ければ信心がそれによって向上さえすればと実を言うたら、そういう条件すらないかもしれんよね。
けれども私共の場合はまだ、そういう条件と云うかいつも信心が、そういう風にして末広がりにね、いつもがおかげの一段高められる信心になる事であるならばです、この位な犠牲は、何時払うてもよいと云う腹が出来ておると云うことです。それを今日はここでは、わが子が病気の時にと、こう仰るからそんなら、私が私の家の子供達が様々にいろんな難儀な思いをする時にです私の姿勢がですよ。
 いわゆる。まあ云うならば、見向こうともしなかった、例えば若先生が破傷風の時なんかは、私は部屋に入って見ろうともしませんでしたもんね。だから子供から見りゃぁ本当に冷たい親だなと、それは思うかもしれません。けれども私の願いはまあいっちょ向こうにある、もうひとつ高度なところに置いてある。だからまぁ云うなら家内がです、そういうところを、身の詰まった信心させて頂いてくれておる。
 子供の事はもうお前に任せると言う様ななものはある意味合いで、私は持っておるから、又そういう女と男の違った信心が出来るのかしれませんね。そういう意味で皆さん、私は家の中でですね、家族上げての信心させて頂くという、そういう意味での信心の持ち場、立場といった様なものもしっかり、本当にこう考えなければいけないと思いますね。お父さん家の事は私が頑張ります。あなたは教会の事の為に一つ頑張って下さいと云った様なね。今日私はこの四十八節を二、三日前もやっぱここを頂きましたが。
あの日の御理解を女性的な信心というなら、今日はもうグッと意味の違ったですね、ここから男性的な信心を頂かせて頂こう。しかもそれは私の信心を元にして聞いて頂いた訳ですけれどもね。どうぞお互いが本当にこの病気を治して貰いたいと云う一念が、こうして一生懸命信心しておるのだと。この難儀な問題をおかげ頂きたいから、信心しよるのだと云うことも、有り難いけれどもね、段々信心が飛躍して参りますというかね、云うなら、天地日月の心というようなのを、天地とは大きな信心。
 日月とは正確な信心という風に頂いて参りますとです、一つ大きな行き詰まりのない信心をさせて頂くとです。今日私が申しましたような事になるのじゃないでしょうか。行き詰まりがないもの、どんな場合であっても。死んだっちゃです、それで、どうした神様じゃろうかとは思わん。為にはやはり日月のような正確な云うなら、信心をいつも精進させて頂き、目指しとかなければならんという事なんです。
   どうぞ。